御由緒
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柴籬宮跡
当跡は大津道(長尾街道)と丹比道(竹内街道)のほぼ中央に位置し、古の松原荘の内にて大和政権の第18代反正天皇の皇居跡で、五年間この地に都を置き河内王朝最後の都として、また古事記、日本書紀に丹比柴離宮とあるは、即ち本宮であります。
記、紀によるとその治世は平穏にして穀物は豊作で人民は富みにぎわい、平和な時代であったと記されており、諸殿の跡なる地名として極殿山、大門、中門、学堂、若宮、反正山、東宮、堂経、中橋、高見などの字が残り、大正6年には大阪府教育委員会より史蹟に指定され、現在では大阪府教育委員会より、これらの地域を埋蔵文化財分布地に指定されております。
神社について
御祭神18代 反正天皇(はんぜいてんのう。別名 瑞歯別命・ミズハワケノミコト){正殿}菅原道真公(相殿)依羅宿禰(相殿)当社は24代仁賢天皇の勅命により創建され後世慶長年中に兵火により焼失、その後寛永年中に宮代代宮寺観念寺2代目住持覚夢(寛永四年没)によって再建され今日に至っております。
第五十六代清和天皇の貞観六年(864年)には、宝幣を給はり、観応二年(1351年)足利直義が祈願参詣し、戦国時代の河内国守護畠山氏も信仰篤くして当社を保護し、旧幕時代には京都御所より菊花御紋章幕一連を賜わり、江戸時代にはあの浮世草子で名高い井原西鶴も再三再四参詣して、当宮の狂歌を数々残し、明治22年には政府より紙僕幣吊を給ふ指定があるなど非常に歴史古くして由緒深く尊い宮であります。
昔は一時広庭神社及び天満宮と称したる頃もあり、神悌混合のときには、境内に神宮寺広場山観念寺もあり、明治五年神悌分離により廃寺となり、同寺の釣鐘は上回願正寺に移り、本尊十一面観世音は上田の観音堂に移転し、僅かに神宮寺の往時の姿を止むるものとしては、今の南門と絵馬堂のみであります。